story
遠い月 / シグマ
ジャンプをすれば月までいけるのだと思っていた。
理屈とか物理的法則とか、引力が重力がどうのとかじゃなくて、なんとなくそういう確信があった。
だってそう思ってたほうが楽しいから!
…っていう話をエレくんとしていた。
今日はミカヅキフォルムだから水色多めだ。
「でね、満月がいちばん綺麗な日にジャンプしたのね」
「どうだったの?」
「お月様って遠いんだなってことがわかった」
「ふ、なにそれ。当たり前じゃん。」
夜の研究室。窓に映る欠けた月の仄かな明かりは、エレくんの開いているノートパソコンの光でかき消されている。
水色になってる時のエレくんはげんきがないけど、そのぶん周りのひとの変化に過敏になる。きっとこの時点で半分くらい、ボクが本当に言いたいことを察している。
「ほんとはもう疲れたんでしょ、月に手を伸ばすのに」
「でも絶対いつか大丈夫になるんじゃないかなって、そういう予感がするのね」
「無理。月は年々ちょっとずつ地球から離れてるんだよ」
「どれくらい?」
「1年でおよそ3.8cm程度」
「それならまだ届くよ。3センチよりはジャンプできるし」
「……キミって本当にここの研究員だよね?」
苦笑いするエレくん。本質を避けるように、上澄みだけの会話が続く。見えているものを見えないふりし続けるのは、思っているよりずっと難しい。ただ間接的なやり取りを通して、あやふやなコミュニケーションが続く。
「結局のところ俺達は重力から逃れることはできないよ、生きるってことは地べたを這いずるって事だ。科学の力も使わずに月に行こうだなんて、烏滸がましいことだね。」
「……エレくんは無理だと思う?」
「無理だと思うけど、俺に答えを求めないほうがいいよ。」
かたかた、かたかた、とキーボードを叩く音が止まった。
「生身の人間が宇宙に出たらどうなるかくらい、わかってるだろ?息を吸おうとしたその瞬間に全部終わるんだよ。君に死ぬ覚悟があるのなら止めないけど、死にたくないのならやめておく事だね。」
そう言ってエレくんはノートパソコンをたたんで、帰る支度を始めた。今日の成果報告がひと通り落ち着いたらしい。
それからボクはひとことも喋ることができなかった。
何も言わないまま、暗い帰り道をエレくんと歩いた。
そういえば帰りが遅くなるって言ってなかったや。
帰ったら怒られるかな。
もしかしたら怒る気力すらないかも。
想定。最悪の事態は?
そんなこと考えるのやめようよ、楽しくないからさ。
「そっか、ボク、疲れてるのかもしんない」
「君は本当に、自分自身のことに疎いね」
「がむしゃらでいたほうが何も考えずに済むしさ」
「……俺はあんまりそのスタンス好きじゃないけど。でも、そのほうが……君らしいかもね」
鈍い足を引きずって帰路をゆく。なんだか今日は重力が強めかもしれない。月に行けばどこまでもふわっと飛んでいけるのになあ。
あ、ちがうや。そういえば足の骨折ったんだった。
まだ大丈夫。
歩けるから大丈夫。
そう言い聞かせている。
……帰ったらルナになんて言おう。